LINK146号広報委員会リレーエッセイ2 『徳島が先? 久留米が先? 第九はじめて物語』

「徳島が先? 久留米が先? 第九はじめて物語」

久留米あかつき幼稚園

理事長 藤田喜一郎

 日本で初めてベートーベンの「第九」が演奏されたのは、豪華なコンサートホールではなく、戦争に敗れた兵士によって演奏され、場所は「俘虜収容所」だったのです。

 1914年、第一次世界大戦が勃発し、後に日英同盟の関係から(中国での利権欲もあったでしょうが)日本もドイツに宣戦布告をし、久留米の第十八師団を中心とする攻略部隊が派遣されました。日本軍は青島(チンタオ)などのドイツ要衝を陥落させ、約4.700名のドイツ人俘虜(ふりょ・捕虜の古い言い方)を捕え日本に送りますが、その最初の俘虜収容所が久留米に開設されたのです。

 その後全国に16か所の俘虜収容所が設置されますが、収容人数が1.000人を超える規模のそれは久留米と徳島県の「坂東」、千葉県の「習志野」で、久留米は最高1.300人を超える人数を収容し、国内最大だったそうです。ただ坂東(現・鳴門市)の方は、収容人数が久留米と大差ないのに敷地面積が久留米の倍あったそうで、後年になってドイツ兵からの評判の差を生み出す原因の一つになっていますが、それは後述します。

 当時の日本(軍)では捕虜に対する暴力や非人道的な扱いは禁じられており、後の大東亜戦争時からは考えられないほど自由な行動や、レクレーションが認められていました。また当時のドイツ兵の中で職業軍人が占める割合は低く、大多数は一般市民からの志願兵や徴兵だったそうです。ということは、様々な職業の知識や技術の持ち主が多数いて、収容所内外でパン・ケーキ・ソーセージ・ベーコンなどの製造、道路や橋の建造が行われ、収容所があった地域にもそれらが伝承されていきました。そして、音楽に関する素養をもったドイツ兵も多数含まれていたのです。

 収容所内での楽器や楽譜の調達、演奏者の確保は困難を極めたことでしょう。しかしそれを乗り越える演奏をしたい、音楽を聴きたいとする情熱が勝り、久留米では200回以上の演奏会が行われた記録があります。

 ベートーベンの「第九」に限りますと、大正7年(1918年)6月1日に坂東で全曲演奏がされました。足りない楽器は別の楽器で、女性のパートは男声合唱でまかなう、という涙ぐましい努力の結果ですが、これが我が国における「第九」初演ということになっています。と、ここまで書くと「いーや、久留米が先」と主張する方もいますので、久留米の話も述べましょう。

 坂東から遅れること約一年。大正8年(1919年)12月3日に久留米高等女学校(後に旧制中学明善校と統合され、現在の県立明善高等学校に至る)で「第九」の第二楽章と第三楽章が演奏されました。これが「収容所の外で」一般の日本人の聴衆を対象としての「第九」としては初演奏となります。

 当時の久留米高等女学校(以下、久留米高女)は、躾や武道などもきちんと教育していた半面、西洋音楽にも親しみ、英語教育も行われていたということです。この久留米高女二代目校長だったのが武藤直治。武藤は大正8年3月に赴任したばかりだったのですが、ドイツ兵俘虜の演奏会を久留米高女で実現したいと、久留米の十八師団と粘り強く交渉を重ね、ついにその年の12月に実現したのです。

 当日は演奏会の前に体育館で女学生たちによる薙刀(なぎなた)の演技がドイツ兵に披露されたそうです。その際、武藤校長からドイツ兵へ「演奏への『謝礼』は出せないが、その代わり感謝の証としてお見せしよう」というスピーチがあったそうですが、なんだか武藤校長の人柄が伝わってきそうなエピソードですね。

 そしてこの武藤校長の熱意と人柄が、この時の演奏会を聴いた久留米高女の教職員と女学生たちに「日本で初めて第九を聴いた一般市民」という歴史的な栄誉をもたらしたのです。

 ここからは蛇足です・・・

 徳島県の坂東俘虜収容所の所長は、松江豊壽(とよひさ)陸軍中佐でした。松江所長は「彼らも国のために戦ったのだから」と、手厚くドイツ兵俘虜に対応します。収容所内にはボーリング場、サッカー場、テニスコート、菜園などが設けられ、日帰りでしょうが海水浴も度々行われていたそうです。先に述べた音楽コンサート以外にも、所内新聞を発行する印刷工場や商店街まで設置され、その他にも講演会、美術工芸展覧会も行われ、兵隊になるまでに満足な教育が受けられなかった俘虜に対する自主的な学習会までもが行われていたそうです。

 また近隣住民からの求めに応じて、技術を持った俘虜が派遣され「ドイツ橋」をかけたり、酪農や乳製品、製パンなどの技術指導を市民に行ったりしたそうです。これは松江所長の寛大さもあるでしょうが、徳島という地で昔から「お遍路さん」を受け入れてきた当地の人々の気風も大きかったのではないかと推察します。

 しかし、さすがに「やり過ぎではないか」という軍部からの批判もあったらしいのですが、松江所長は頑として受け入れず、その結果ドイツ兵からは益々評判が上がり「世界のどこにバンドーのような収容所があるだろうか」、「マツエこそサムライ」と言う声があがり、自ら「バンドー人」と称し、帰国後にはドイツ各地で「バンドー会」なる同窓会が開かれたそうです。

 一方、久留米俘虜収容所は全国で最も収容人数が多かったにもかかわらず、敷地面積が狭く(坂東の約半分)俘虜にとって快適な環境とは言い難かったようです。そのうえ眞崎甚三郎陸軍中佐が所長の際に、ドイツ将校を殴打して大問題となります。そのドイツ将校の言動が悪かったのかもしれませんし、眞崎所長が感情的になったのかもしれませんが、当時の軍隊では将校は一般の兵とは違って特別な権威をもった存在ですから、それを殴ったということで国際的な問題にまでなったようです。いずれにせよこの結果、久留米では収容所側とドイツ俘虜側との関係は最悪のものとなったと言われています。

 先に述べましたように坂東の収容所が「戦時のユートピア」みたいな評価をされるものですから「それに比べて久留米は・・・」と言われると、ちょっと分が悪いですし、久留米人としては残念なことです。


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